地球科学、とくに、環境問題を研究するものにとって、システム論的考え方は欠かせない。しかし、ここに一つ厄介な問題が内在している。古典的な科学的、客観的認識や方法論の大前提になっているのが、関心の対象と、自分自身の存在や認識とは切り離して考えることができる(対象に自分自身の存在や認識が影響を及ぼさない)という前提である。このような前提を受け入れたうえで対象の挙動を観測することを外部観測という。一方、このような前提を置いたときに明らかな弊害が生じるときは、従来の方法論が適用できないことを明示的に示すために、外部観測に対置させて、内部観測という。
いくつか具体的問題を考えてみよう。斜面を転がり落ちるボールの運動と、それを観測する自分の存在や認識とは、完全に切り離して考えることができると仮定しても問題ないであろう。しかし、これも厳密には近似的にそうみなせるということであろう。つまり、万有引力の法則によれば、あらゆる質量をもつ物体間には相互に力が作用する。つまり、自分の存在とボールとは相互に引力を介して作用しあっている。しかし、地球の重力の作用や斜面を構成する物質との間に働く摩擦力がはるかに大きいために、自分の存在がボールに及ぼす影響は無視しうるのであろう。
よく例として挙げられるのが、量子力学的現象における観測者と対象の不可分性である。ミクロの粒子の動態(速度と位置)は、観測することによりどちらかが決定される一方、他方は不確定となる。つまり、観測することにより部分的に状態が確定し、部分的には確定できず、観測という行為によってはじめて状態が確定する。これは観測という行為が粒子の状態に影響を及ぼしているとみなすこともでき、自分自身の存在が対象に影響を及ぼしているとみなしうるような問題とされる。
また、もっとわかりやすい事例では、文化人類学や社会科学におけるある社会集団の観察行為である。特に、対象としている社会集団の一員としてその集団を観察する参与観察においては、観察している当人が観察の対象としている社会集団の一員となっているために、当人の存在自体が、その社会集団の特性を変容させることになる。あくまでも短期間の滞在であって、近似的には影響を及ぼしていないとみなすのが通常なのであろうが、どんなに短期であろうとも、ひとつ難しい問題が含まれている。それは、観察する当人が、観察対象の人間に対して聞き取りやアンケートを行ったとき、対象の人間の会話やアンケートへの応答は、いったいどういうことを意味するのか、という点である。人間のコミュニケーションは必ず相手あってこそのものであり、相手の存在あっての自分の応答であるため、こちらの存在がその人の応答に必ず影響を及ぼしているに違いない。
このように考えてくると、外部観測的問題と内部観測的問題とは、自分の存在が対象の及ぼす影響はどのような場合にも多かれ少なかれ存在し、それは程度の問題である、ということではないだろうか。
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